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繋げよう九州!広げようEPOの輪!!インタビュー EPO東北 井上 郡康さん

 東日本大震災から一年と二カ月が経とうとしています。あらためまして、亡くなられた 方々に哀悼の意を表しますとともに、被災された方々に心からお見舞い申し上げます。
EPO(環境パートナーシップオフィス)は、全国8か所各ブロックに一か所ずつ設置されています。仙台に拠点を置いている東北環境パートナーシップオフィス(EPO東北)は、
震災直後から関連情報を発信しています。

3.11 あの時 東日本大震災 3月11日 14時46分からの物語 」では、

環境分野をはじめ、様々な団体・企業等の方々へのインタビューを続けられています。
今回はEPO東北の井上 郡康(いのうえ くにやす)さんに、井上さんにとっての
「あの時」とEPO東北の取組みについて、お話を伺いました。

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東北環境パートナーシップオフィス
EPO東北    井上 郡康 さん

 ○何をしたらいいのか途方に暮れた震災直後

 私は東日本大震災が起きた時出張で大阪に来ており、テレビからあの惨状を見ていました。
テレビで映し出される映像は遠い国の話ではなく、自分の住んでいる直ぐ近くで起こって
いることであり、何度も足を運び馴染みのある地域が破壊されていく・・・。
その時の衝撃は今でも忘れる事がありません。物理的には理解が出来ても頭では混乱する
ばかり、「もうあの町は無いのか・・。」と何とも言えない気持ちでした。家族とも連絡が
付かず生きているかさえも分からない状態の中で、とにかく直ぐに帰ることを考えレンタカー
で仙台に帰ることになりました。
 太平洋側は混乱してるのが分かっていたので、大阪から日本海に抜け福井県、新潟県と
日本海を北上して帰りました。新潟県を走っている頃、新潟県や長野県で地震が発生したり、
ラジオからは宮城県仙台市荒浜で数百人のご遺体が上がったなど飛び込んでくる情報、
そして携帯の地震速報はなりっ放しと「日本はもう終わるかもしれない」と本気で感じて
いました。今から考えると変な話ですが、帰っている時は「日本が最後の日を迎えようとも、
最後は家族と共に迎えたい」そんなことを本気で考えていました。それぐらい気持ちは
緊迫していたんですね。新潟県や山形県の豪雪地帯を走り抜け、同じく豪雪地帯の山形県と
宮城県を繋ぐ笹谷峠を抜け12日の朝方仙台に帰ってきました。それから大変な一週間が
始まりました。
 とにかくライフラインが全てストップしており、極端に食料やガソリンをはじめとする
燃料が不足していました。
 私も家族を食べさせる為に町にあるスーパーに朝4時から5時間並んだり食料確保に奔走
する毎日でした。非常に大変でしたが、街中では知らない人同士が助け合い励ましあう
姿を何度も目にしました。あの時非常時の街を経験した訳ですが、人々の落ち着いた助け
合う行動は日本人として誇りが持てる瞬間でした。
 この時期、多くのNPOが何をすべきかと会合を重ねていました。この時いち早く支援に
乗り出したのがアウトドアを専門とする自然学校等でした。我々のように普及啓発や
中間支援を専門としているところは、何をしていいのか分からず途方に暮れることが
多かったです。    
 最初は、EPO東北として、助成金情報や支援情報、そして被災地情報を拾い上げて、
ホームページでまとめて発信しようとしていましたが、情報が変わっていくスピードが尋常
ではなくて、実際には難しかったです。何ができるのか、模索していた中で、たどり着いた
のが、「3.11 あの時 東日本大震災 3月11日 14時46分からの物語 」です。
 主に、環境分野の人が、あの時どう被災し、どの様に動いたのか、また今振り返って
何を思うのか、など取材を通して記録に残す作業をしています。
 なかなか聞きにくいだろうと思われるのですが、あれだけの災害を見た人というのは、
意外と聞いてもらいたいという思いがある。「聞く役割」があることで、押しつけに
ならずに済んだというところはありました。実際に体験された方の話には、どんな媒体で
あっても、やはり伝わるものがあると思います。取材の最初のころは、震災からあまり
時間が経っておらず、聞くも涙、語るも涙という状況もありました。

  詳しくはHPを見ていただきたいのですが、実際に津波にのまれた方や周りで沢山の方が
亡くなった方も居られます。しかし取材を通して感じたのは復興に向かう人々の力強さ
でした。岩手県で伺った方が(「今後もこの土地(海岸)で暮らし続けたい」と考えて
いるので、「地震で家を失うような体験をしても何故津波のくるような場所に暮らし続け
たいのか」とよく質問されるそうです。その質問に対して「自分たちは先祖代々この海岸
で暮らしてきたことがDNAに記録されているからこの土地を離れることは出来ない。けれども
もし次の津波がきたら今度は絶対に死者を一人も出さない」)と言われており人間の力強さ
を感じました。
 こういった生の声を残していくことは、私たちにとっても、大変やりがいがあったし、
この取材を通して震災を共有することで、絆というか、何かつながりは生まれたように
思います。時が経つにつれて、状況が変わり、当初は被災した時の状況を中心に取材して
いましたが、最近はどのように復興していくか、ということに重点をおいて取材をしています。

○はじめて津波の被害を受けた被災地に入る。

 私が初めて津波被害を受けた被災地に入ったのは震災から3週間ほど経った頃でした。
当時は毎日のように遺体が見つかっており沿岸部は異常な状態の時期でした。仕事上の
知り合いを訪ねて気仙沼市に入ったのですが、そこには私が知っている気仙沼はありま
せんでした。馴染のある港町は破壊され大型の船が陸に打ち上げられ、街中に沢山の車が
前方部分を地面につけて立った状態で散乱しています。家の上に家が載っていたりと、
普段では想像もできない状況でした。また気仙沼市鹿折地区は津波直後に大火災が発生し
一面が焼け野原になってしまいました。私は鹿折地区を見たとき、写真で見たことがある
原爆投下で壊滅した広島や長崎の画像とダブりました。一面灰色の世界で、あまりの惨状に
足が震えたのを覚えています。その後、石巻市に入り日和山から見た風景はもう言葉には
なりませんでした。

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○緊急時につながる緩やかなネットワーク

  この震災で代表的な復旧復興支援をしている「遠野まごころネット」は、非常に理想的な
繋がりで運営されていました。遠野では「遠野の風土と観光を考える連絡協議会」を立ち
上げたばかりであり普段から地域づくりに関わる活動を行っていたので、このネットワークを
活かし、「遠野まごころネット 」(遠野被災地支援ボランティア)を設立し、災害支援活動を
行っています。個々の力は弱くとも、多くの団体と連携することで機動力が増し、今回この
ネットワークが大きな役割を担うことが出来ています。

  この話でも分かるように一番重要なのは普段からある緩やかな繋がりだと思います。
「常日頃」という言葉が一番ハマると思いますが、常日頃から緩やかながらもNPO同士の
繋がりがあったから、いざという時に集結し、協力し合うことができたと考えられます。
 何もないところから組み立てることは難しいので、緊急時には、手を繋ぐという緩やかな
取り決めは、あった方がいいのかなと思いますね。普段は目的がないので繋がりにくい
ですが、緊急時には必要だなと思いました。また民間団体の支援の意味は非常に大きく、
行政では「公平性」という言葉に縛られ細かい部分まで手が回らないのに比べ、民間団体は
しがらみもなくいち早く動くことができます。これは行政には行政しかできない事があるし、
民間には民間にしかできない事があるという意味では非常に大きいと思います。
この遠野の土地柄にも意味があります。岩手県の沿岸部と遠野は歴史的に見ても繋がりが
深いそうです。遠野は宿場町だったので、それぞれの沿岸部に行くには、必ず遠野を通って
行ったそうです。だから明治とか昭和の津波の時も、遠野に本部がありましたし、今回も
後方基地になっていました。九州の場合はどこになるか、ということを考えておくことも
大事だと思います。

○先人たちの知恵とこれからの暮らし

 昔から東北沿岸部は津波が来るところで、これまでにも幾度も津波被害に遭い、学校など
では積極的に防災教育が進められてきました。今回の震災で先人たちが現代人の我々に様々
な形で警告を発するために残してきているものがあると知りました。
 例えば仙台市では貞観地震(869年)の際、津波がそこまで到達したということを、
後世に伝えるために作られた波分神社。また、江戸時代に、津波を避けるために内陸に
作られた旧街道や宿場町は、今回の津波でも寸前で止まり、被害を受けていません。
釜石では、「津波てんでんこ」という言い伝えに従い、各自が判断し、高台に逃げたことで、
多くの小・中学生が助かっています。
 メディアや、ビデオ、カメラがなかった時代に先人たちが我々に残してくれた知恵が、
現代に引き継がれ、子孫の命を助けている。私たちも、この千年に一度の震災を経験した
世代として、後世にきちんと何か残していかないといけないと強く感じます。

 これからの暮らしを考える時に思い出すのは、ライフラインが止まった時に昔ながらの
生活をしている人はほとんど動じていなかったこと。薪ストーブを利用している人、
かまどでご飯を炊いている人などは、影響が少なかったと聞いています。
 ここから分かることは、現在社会は電気がある事が前提で成り立っている社会であること。
都会の人たちは、3リットルの水に5時間並んだり、電気がなくてトイレのふたさえも
開かない家もあったそうです。田舎の暮らしは古臭いと敬遠され、便利な暮らしに移行
していましたが、実は、昔ながらの生活がとても強く、電気があることが前提の暮らしが
いかにリスクが高いかということを強く感じましたね。そういう目線で普段の暮らしを
考えると、リスク軽減も含めて、薪ストーブの利用など、家庭内でのエネルギーの多様化を
図ることはとても大切だと思います。また、これからは、非常時になると避難所になる
小学校など公共施設のあるべき姿、つまり太陽光発電などの独立した電源設備の必要性も
問われると思います。今がもっとも変わることができる時ではないでしょうか。今回の経験を
通して、今までの暮らしかたを根本から見直し、変えていくことの必要性を感じています。

○振り返って

 九州出身の私が1000年に一度という大災害時に東北という地に住んでいたことや、この様な
仕事を偶然にもしていた事に何かの意味があると信じています。
 この東日本大震災で亡くなった方々の為にも、今の時代を懸命に生き、震災を後世に伝える
ことが、この時代を東北で生きる人間としての責務だと考えています。
 震災後、ライフラインが全て止まった仙台の空では満点の星空が広がっていました。
 あの時、あの星空をみて、我々は何を感じていたのか?
 そのことを絶対に忘れてはいけないと考えています。 

■インタビューを終えて~いま、九州で考えなければいけないこと~

  EPO東北の「3.11 あの時 」からは、東北で活動されている方々が、ご自分たちも
被災者でありながら、震災直後から地域のために動かれた姿が浮かび上がります。
 そして、そこには、平時から備えておくべき危機管理、いざという時に繋がることが
できる緩やかなネットワークやコミュニティの重要性、そしてこれからの私たちの
暮らしかたや生き方のヒントを示されていると思います。九州・沖縄で同じことが起きた
時のために、今から私たちが備えておくべきこと、これから私たちはどんな未来を作って
次の世代につなげていきたいのか。
3.11 あの時 」から学ぶことはたくさんあります。ぜひご一読ください。
※「3.11 あの時」は冊子化されるそうです。これに伴い、一年にわたったホームページ

上のレポート掲載は終了となるそうですが、今後もEPO東北の発信する情報から目が離せません。

【リンク先】

(EPO東北のホームページ)

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    (3.11あの時 東日本大震災 3月11日14時46分からの物語)

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